元興寺

虫鳴くや 七堂伽藍 なにもなし  正岡子規

ならまちにある元興寺は、その昔飛鳥にあった法興寺飛鳥寺)が平城遷都に伴ない移築されたもの、と言われている。

証拠?それは、禅室の巻斗(梁と柱の間にあるやつ)から西暦588年までの年輪が確認されたこと。「日本書紀」の記述との検討結果、590年に飛鳥寺建立のために伐り出された材木であると考えられるとか。そしてもうひとつ。屋根瓦も、行基葺きと呼ばれる飛鳥時代の瓦であることだとか。

色が変わっているところが、その行基葺き。なーんと、現役。

でもどうやって、運んだんだろうねぇ。飛鳥川から佐保川をずーっと上がっていったんだろうか?途中、どうやってもつながらないから、運河でも造ったのかしら?(藤原京には、材木を運ぶための運河跡がある。)今でも、飛鳥から奈良市内へ行こうと思うと、けっこうな距離があるもんね。

元興寺の極楽坊。智光曼荼羅が本尊である。禅室と極楽坊。この二つしか建物は残っていない。萩の季節は、見事だよ〜。

年輪とか、瓦とかで移築されたということはわかったけれど、いろんな不思議はまだまだある。元興寺の前身である法興寺飛鳥寺)は、蘇我馬子が建立したと言われていて、もともと、蘇我氏の氏寺である(ちなみに興福寺藤原氏)。平城遷都が710年、元興寺が移築されたのは718年。なぜに、8年も空いているのか?しかも、蘇我入鹿は当時の宮廷においては、謀反人という扱いである。だが移築が終了すると、南都七大寺の一角を占め、東大寺に続く格付けになっていくのだ〜。

塔跡(大塔)の礎石。この大塔の基壇より、765年初鋳の神功開宝が出土されている。・・・ん?じゃ、いったい「いつ」元興寺はできあがったのか?


平安時代から寺運は衰退。今ではすっかり「ならまち」となった、かつての元興寺。いつしかこの寺を支えるのが貴族から庶民に変わり、浄土信仰をはじめとして、いろんな教えを伝え、今に至っている。そんな庶民信仰の資料を眺めたあと、この町を散策するのも、これまた一興かも。