桜狂想曲2013@奈良
相変わらず県内から出てません(笑)
いつかは、いつかは・・・って思ってるんですけどね(^_-)
では。
氷室神社。県内で一番最初に咲きますね。
狛犬はね、もう定番(笑)
石舞台と甘樫の丘。蘇我つながりで(笑)
最近、ラッピングバスが走ってます。絵はもちろん里中先生!
我が地元、郡山城と沿線の近鉄電車。橿原神宮へ向かってひた走ってます!
奈良の桜の名所と言えば、ココ!
吉野の金峯山寺と上千本。
金峯山寺にて人が写りこんでいないのは、それなりの時間に行ったからです。それなりの・・・。
で、シメは・・・。
南円堂と奈良公園。
仏フェチ楽しみの、康慶作不空羂索観世音菩薩特別御開帳まであとわずか!!
まってろよ、興福寺。
発掘調査説明会にて井戸を見てきた
これがその井戸。
前回の破城騒ぎのあとも、箸尾さんやら越智さんやら十市さんやらとすったもんだをしたあげく、筒井氏、再び筒井城へ戻って参ります。前回の主郭は発掘現場から東側にある神社付近だったそうなんですが、今回は発掘現場から南側に主郭を移して築城したようです。
あくまで、伝承だそうですが。
現在蓮根畑になっている所が内堀だったそうなんですよー。そこで育っている「筒井蓮根」は大和野菜のブランドで、もっちりしていてオイシイです。
そんなことより。
やっぱり水源は大切ですからね、この井戸の近くに主郭があったと予想してもいいんじゃないかしら??ここらへん、「筒井順慶顕彰会」の皆さまがおられたから・・・でもないんでしょうが、ちょっと歯切れが・・・。
それにこれ以上、ここらへん掘れそうにないしね←住宅街です。
井戸枠の直径は2.5m、深さは2mほど(安全のため底までいってないって)。奈良らしくなく金気がない水が、湧いておりました。
「自己責任で飲んでみますか?」って(笑)。
それより、石組の中に転用石がゴロゴロとありますがな(笑)。どうみても蓮華模様ですねぇ。どこかの燈籠かなんだかの足元にあったんでしょう。
この井戸、上半分の石組が壊されて、その石材が井戸の中に投げ込まれていたそうです。
天正8年に出された「大和一国破城」令ですな。
そうです、信長は順慶坊やに「郡山城を除くすべての城を壊してきゃーも」(←あってるか?)と命じ、こんなに頑張って守ったり、奪い返したりした筒井城も破城の憂き目にあうわけです。
というわけで、ここらへんで私めの妄想メーターがぴくり!と反応。
っつーことはですね、この井戸は順慶やら嶋左近やら松蔵右近やらが使ってた!!ってことですよねぇ。
「彼らが日常的に目にしていたものと同じ光景を見ることができるって、素晴らしいことでしょう」
と、説明会でもおっしゃっておられました。
ほんとですねー。もう、すっかり気分は戦国時代(笑)に突入です。
一緒に出てきた遺物の数々。順慶も信長に茶道具をプレゼントしてましたよね、だからこれらも使っていたものなのかもしれませんねぇ。
「どこかで見れるようにしてくれないの?」
って言ってたオバサマがいらしたが、その通り!頼むぜ、大和郡山市!!郡山城の石垣修復も大事だけどさ。
発掘調査が終われば、市の土地なので史跡公園にするそうなんですけど、堀は無理としても、この井戸は見られるようにしておいてくれないかなぁ。ムリだろうなぁ、危ないしなぁ・・・。
今から450年ほど前に、筒井順慶は信長の命により筒井城から郡山城へ移り、その際、井戸の上部を破壊して埋め戻します。その時一緒に埋められちゃったのが・・・。
450年ぶりに日の光を浴びたのはいいけれど、線香は供えられるは、野の花が手向けられるは、しかも450年前にはなかったカメラでバシャバシャ撮られるは・・・。
大変な一日だったでしょうね。まんまんちゃん、あん。
移った先の郡山城の普請の際には、明智光秀もお目付け役で来たとか。今年も桜が満開です。
蛇足の蛇足。
その後順慶は36歳の短い生涯を終える。奈良にある伝香寺は、若くして亡くなった息子の菩提を弔うために、母が「香華の絶えない寺」にしたいと、椿を植えたとか。はらはらと花びらが落ちる椿は「武者椿(もののふつばき)」と言われ、奈良三名椿となっている。家臣だった島左近は順慶の年忌法要の際、とてもかわいらしい太子像を贈っています。
発掘調査説明会へ行ってきた。
筒井城址というのが大和郡山市筒井町にございまして、そちらでの発掘調査を大和郡山市教育委員会がされていらっしゃいます。
今回、堀だの石組み井戸などが発見された!!とのことでしたので、行ってまいりました。
筒井町にあるから筒井城、でもありますが、筒井城といえば筒井順慶に代表される筒井氏の居城だったところですね。
で、その筒井氏。元はと言えば、興福寺の衆徒です。ウィキ見ていただければ、そこら辺はちゃーんと書いてある・・・はず。順慶自身も出家しています。
筒井城が文献にあらわれるのが14世紀ごろ。その頃から15世紀ごろにかけて大和の豪族たちと、すったもんだを繰り返しておったようで、我らが筒井氏、どうもその頃こてんぱんにやられて、筒井城から撤退しているようです。
どうやら、このカワラケたちはその時のものではないか、とのことでした。堀を埋めるべく、大量の土が落としこまれている、ということ、年代的にそのコテンパンにやられちゃった時と一致するので、これは「破城」の儀式ではないか?
何をどうしたのか?というのは、文献上には載ってないそうなのですが、おそらく夜じゃないか?カワラケの枚数は誰も数えてくれないけど(数えましょうか??)、千枚は超えるでしょうねー、すごいですよねー、って明るくお話してくださいました。
後から写真を見た、マリポロ師匠からは「宴会っていうセンもあるよ」とのお話を頂戴しましたが、その時は、城を焼き払ってなんかえらく遠いところへ(県内だけど)落ち延びたようなので、そんな余裕はなかったんじゃなかろうか・・・。それとも、負けたんでみんなでやけ酒飲んだ(笑)、とか。
あー!!井戸とその井戸にまつわるちょいとした萌えネタと、井戸から出てきた私的萌えポインツに行きたいところなんですが、慣れないことを書いたんで疲れて参りまりました(笑)
井戸話は、また後日。
それにしても、年表をあらためて見ていますが・・・。
わりと頻繁に、筒井城から撤退してますな・・・。
仏フェチ、鎌倉へ行く
鎌倉の東慶寺にて「水月観音」様がお出ましであらしゃられます!との情報を得たので、仏フェチなるもの、見にいかにゃー!(^^)!と・・・。
行ってきました、鎌倉へ(笑)
花のお寺としてたいそう有名だそうですが(すみません、なにぶん遠いもんで)、ここは縁切り寺でもあったんですね。そう思うと、何やらフクザツな思いも・・・。
行った時は、梅の花が満開!みごとなしだれ桜の木がありましたので、もうそろそろ・・・じゃないでしょうか??
お目当ての水月観音は、わかっちゃいるけど、ちょっと横座りの、なんというかアンニュイな・・・、ぶっちゃけると「しどけない」カンジでわが身を水面に映していらっしゃいます。
ビックリ(笑)
掛け軸なんかではよく見る構図ではありますが、3次元で見るとこんなに・・・なものとは。説明文には「保守的な京都では受け入れられず・・・云々」とありましたが、それはどうなんだろう??京都って結構新しいもの好きですよねぇ。
ご一緒していただいた、マリポロ師匠と福丸姉さんによると「鎌倉って中国の影響を受けてるからね」とのことでした。
残念なのは、瓔珞が後付けされていたこと。あれは、いらんのじゃなかろうか。←大きなお世話。
今回我々一行は、水月観音だけではなく、
お寺の方が隅から隅まで案内してくださるのはいいが、どこもかしこも写真が撮れなかった覚園寺や
なんと、お昼ご飯もそこそこに、22,000歩ほど歩いたのでありました(笑)
もちろん、歴史大好き!な面々なので、色んなやぐらや(ex腹切りやぐら)、切り通しでは得意の妄想話に花を咲かせて・・・。
それにしても、歩きましたねー。花粉症なお二人には、とても気の毒な1日だったようでしたが(本当に申し訳ない 汗)、充実した鎌倉行きでした。ありがとうございましたm(__)mまた、遊んでやってください。
追伸:大塔宮の呼び方ですけど、「おおとうのみや」でしたわ、私。