恵林寺

甲斐の国へ来たからには、どうしても行きたい所があった。そのひとつが、ここ。臨済宗妙心寺派乾徳山恵林寺である。
武田信玄公の菩提寺としても名高いが、三門にも掛けられているこの言葉も有名である。

安禅不須山水(あんぜんかならずしも さんすいをもちいず )
滅却心頭火自涼(しんとうめっきゃくすれば ひもおのずからすずし)

武田家が滅びた後、この恵林寺には武田家ゆかりの者たちが匿われていた。勝者として織田信長は、彼らを引き渡すように命じるが、寺はこれを拒否。怒った信長は快川和尚をはじめ僧侶を封じこめ、全山に火を放った。その時、炎上する三門楼上で唱えた快川和尚の遺偈である。

それにしても、すごいお言葉でござる。私ごとだが、マッチを擦って蝋燭に火を灯すというのが、非常に苦手な子供であった。いつも指先を「アッチッチー」としていたのだが、そのたび「こんなに熱い火が、涼しいと思うなんて・・・」と思っていたもんである。いや、くだらん余談です(笑)

信玄公生前に製作された武田不動尊、信玄公墓所柳沢吉保夫妻のお墓を拝ませていただく。「信玄公ゆかりのお寺」という華美な雰囲気よりも、禅寺らしい凛とした空気が漂う静かなお寺である。織田家によって全山が焼かれた後、徳川家康によって(武田家好きだねー)再建され、柳沢吉保が信玄公の法要と寺の修復を行っているとか。(恵林寺より)

信玄公博物館内では常設展示として信玄公愛用の太刀や兜、軍旗(もちろん風林火山!)、起請文やら松姫消息文などの各種書状、甲陽軍鑑などなどが展示。そして今回の特別展示は「柳沢吉保」であった。柳沢吉保といえば、その子の吉里の代の時、甲府藩15万石から郡山藩へ国替されている。柳沢文庫には、吉里筆による「武田二十四将図」、武田晴信(信玄)、勝頼の高野山成慶院への書状、伝馬手形があるしね。浅からぬご縁である(と勝手に思っている)。私の旅の恒例である「どっから来たの?」攻撃をこれほど待ちわびたこともなかろう。が、誰一人として、聞いちゃーくれねぇ。うーむ、うまくいかんのう。


秋の日はつるべ落とし。夕暮れせまる山門前のバス停で、うっすら見える富士山を眺めながら、問いかけがなかったことをさびしーく思うのでありました。チャンチャン。