景徳院

この甲斐大和駅周辺は、戦国大名の甲斐武田家が滅びた場所でもある。天童山景徳院は、勝頼、信勝、北条夫人(桂林院)の死を弔うために、徳川家康公が建立したお寺である。

ひっそりとしたたたずまいのこのお寺には、勝頼公主従のお墓や、腹を切ったとされる生害石、没頭地蔵がある。お寺の中の色々な場所にある武田菱を見ていると、何やらこみあげてくるものがある。最後の最後まで、裏切られて追いつめられて、行きついた最後の地なのだ、ここは。生きている間は、偉大なカリスマである父と見比べられたり、あるいはそしられたりして、もがいて苦しんでいたであろうけど、今はこの静かな土地で心穏やかになっているであろうか?なーんて思ったりして。

景徳院から甲斐大和駅まで歩くことにした。勝頼公らの首を洗ったとされる首洗い池、小宮山らが滝川一益軍と戦った鳥居畑古戦場を通り過ぎると、姫が淵に。

ここは、勝頼公らに付き従ってきた腰元たちが逃げ切れないと悟り、断崖に身を投じた所とされる。このレリーフは、そんな彼女たちの霊をなぐさめるために建てられたもの。



歩いている道すがら、いろんな事を妄想した。今でこそ国道が走り、車の往来が激しいところであるけれど、当時はうっそうとした山が迫り、川の水音も今より随分と激しかったに違いない。再起をかけ小山田信茂を頼ったものの、すでに織田方に寝返っていた小山田は、迎えに行くどころか討とうとする。もう、ぼろぼろである。何を思って、この道を歩いていたのか(おんなじ道じゃないけれど)。誰一人としてすれ違う人のいない(車はたくさんすれ違ったけど)道を、そんなことを思いながら歩いていた。

歩きながら、武田家の最後を描いた、いろんな作家さんの本を思い出した。だいたい共通しているのが、「気が短くて、おこりっぽくて、人心を掌握できなかった」という勝頼公の姿である。確かに彼の代で戦国最強といわれた武田家が滅びていること、最後まで付き従ったのがほんのわずかな人数であったこと、親類縁者(木曽、穴山)が早々に裏切っていることから、そういうお話になるのであろう。でも、私の中では、中学生の頃に読んだ新田次郎氏の「武田勝頼」にある「偉大な父と比べられ、もがき苦しみ」ながら、精一杯当主としての責任を果たそうとする、一人の若き戦国大名の姿であり、この道中で私の中で出てきた勝頼公は、やっぱりそんな姿をしていた。


おぼろなる 月もほのかに雲かすみ はれて行くへの 西の山のは

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