朱雀〜キトラと高松塚と薬師寺の関係

キトラ古墳が造られたのは、7世紀初めから8世紀初めだと言われている。骨の一部は見つかっているものの、誰が被葬者かはいまだにわかっていない。日本の古墳には、墓誌を入れる習慣がないからね。
他にも謎は多い。なぜにキトラと呼ばれているのか?なぜ、壁画があるのか?そして、なぜ高松塚と壁画の内容が違うのか??

高松塚の壁画は、四神、天文図はもちろんだが(残念ながら朱雀は破壊されている)かの有名な飛鳥美人が描かれている。が、キトラの壁画に描かれているのは、四神、天文図、そして四神の周りに描かれている十二支である。十二支とは、動物の頭を持ち、人間の体を持つ神獣のこと。北壁の中央に「子」が、そこから時計周りにそれぞれの壁に3体ずつ、ほぼ同じ間隔で描かれているのだ。地下の展示室に「寅」の写真がある。ちょっとユーモラス。
ここから高松塚は、死者が霊界においても生前同様に暮らせるように、という願いが込められているのに対し、キトラの場合は、被葬者の霊魂を鎮めるという思いがあったのではないか、という説が書かれてあった。描かれた時期も、高松塚より少し前の700年ごろというのが有力である。

で、2006年から始まった壁画の公開は、今回朱雀が公開されて四神揃ったわけなんだけど。その朱雀についてちょっと興味深い説明があった。
朱雀の形にも色々あって、山鳥タイプと孔雀タイプがあるそうな。山鳥タイプは頭から尾羽まで直線的に描かれている描き方で、キトラの朱雀がまさしくこのタイプなんだそう。他には、薬師寺薬師如来の台座に描かれているもの。孔雀タイプはというと、胸を丸く強調している描き方で、正倉院の宝物によく登場しているそうな。かなり、装飾的な形のものだ。
つづいて、薬師寺の朱雀との相違点をあげていた。尾羽、蛇腹が同じである、重要な共通点は装飾的ではないこと。冠羽の形状、足の向きが違うこと。それらをあげて、一説としてという断り付きながら、薬師寺とキトラの朱雀は対ではないのか?と書かれてあった。うーむ。確かに薬師寺は、天武天皇により680年に発願、持統天皇により697年に本尊開眼している。明日香村には、その天武天皇持統天皇の子息の墓があると推定されているし、(高松塚、キトラともにその可能性がある言われている)キトラ古墳の造られた時期が7世紀末から8世紀と言われているので、対ではないか、と考えるのもアリかも。

キトラ古墳では盗掘穴による破壊も免れている、伝説の朱い鳥獣である朱雀。もし、高松塚の朱雀が無事であったなら・・・、それは、山鳥のようにまさに飛び立とうとしていたのか、それとも孔雀のように己が大きさを誇示しようとしていたのだろうか。

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村