平城京はこんなに大きい〜南限は、九条?それとも十条?

お散歩コースの話の続きの前に、ちょっと。

平城京の形は、南北4.8km、東西4.3kmの長方形を基本に、東側に外京(興福寺元興寺のあたり)北西側に北辺坊(西大寺のあたり)と呼ばれる張り出し部を持ち、内部は碁盤の目に区切られていた。この姿は、幕末の北浦定政(古市奉行所役人、「平城京大内裏跡坪割之図」を完成させた)、明治の関野貞奈良県古社寺修理技師、「大黒の芝」が大極殿跡であることを発見した)の研究により定説となっている。平城京の南限は九条で、それより南側は京外といわれてきた。(大和郡山市の資料より)


羅城門跡から、というより羅城門橋から国道24号線を渡ると、そこには今年春より開業した、巨大なショッピングセンターがある。

ちょっとその前に、羅城門公園。こんな石碑が建っている。

このショッピングセンターを建設するにあたり、発掘調査をした結果、従来の九条大路より南側から条坊道路(東一坊〜東四坊)、井戸、土杭、さらに道幅約16mの十条大路が見つかった。このことで、朱雀大路より東側では(左京)、十条まで作られたことが判明。平城京の前の藤原京が、東西十坊、南北十条の都であったという説が有力なので、これに基づいて作ったのでは、とのこと。ただ、730年ごろには十条付近は、理由はわからないがすべて埋められてしまっている。荒廃して・・・、というわけではないようだが。

九条大路の南側で発見された、羅城の位置を示す看板。ここには、羅城の柱列を表わしたモニュメントがある。

羅城とは、平城京と京外を区切るための築地塀のこと。二列の掘立柱構造で、柱を立てるための穴は一辺1m、柱の直径は30cm。羅城は、南を限る施設として南面全面に作られていたと考えられている。


と、ここまで、現在その遺跡があるかの如く書いておりますが、実際に見ることは、かなわなくなっている。じゃ、今はどこにあるのか。奈良ではよくあるパターン(!)遺跡が出ちゃったので、オープニングが大幅に遅れた前述のショッピングセンターの下にあるのだ。(長屋王の邸宅跡と同じ運命)
ただその施設の中に「大和郡山市元気城下町プラザ」というのがあって、そこで、十条展示コーナーとして、発見された土師器やら遺跡の写真やら説明やらを見る事ができる。(長屋王邸宅跡の遺物は、橿考研究所博物館にある)


で、平城京の南限は九条か、十条か。奈良市は「(十条は出てきたかもしれないが)文献にもないんだし、従来通り九条」と言い(実際、九条は地名にもなっている)、大和郡山市は「十条大路が出てきたんだから、十条だよ」と主張している(残念。この遺跡が出たところの地名は、十条ではなく下三橋)。
奈良市大和郡山市の二つの市にまたがった、平城京という都。もしこの先、右京側で条坊道路などの遺跡が発見されたら、十条の存在を示す資料が出てきたら・・・。お散歩コースでの、妄想は止まらない。

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