円通院へ

瑞巌寺への参拝を終え、お隣の円通院へ行く。瑞巌寺は御存じ伊達家の菩提寺だが、この瑞巌寺周辺は、伊達家ゆかりの方々のお寺がひしめきあっている。

円通院は、第2代藩主忠宗公の子であり、19歳という若さでこの世を去った(毒殺説あり)光宗君を祀る臨済宗のお寺である。

雅とも思える山門をくぐると、何人かの観光客(もれなく私もですが)の方が、七福神庭園の前で、一人のボランティアガイドさんを囲んでいる。心の中で「いいなー、説明が聞けて」と少々いじけていると、その方「こっちおいで、今から説明するから」うゎーい(^^)v
松島を見ている時は、風は吹くは雨は降るはだったけど、瑞巌寺に参拝後は雨もあがり、しかも円通院では晴れてきたぜ。政宗公の御位牌にお願いしただけの事はある。さすが仙台藩初代藩主、すばらしい御威光です。

石庭を抜け、三慧殿へ。もみじの木が、多数植わっている。ガイドさんも御自慢らしく「秋にはライトアップします。きれいだよ、もうね、嵐山にも負けんくらい」いきなり出てくる、京都有数の観光名所の名。寒くて、もみじの芽吹きはまだだが、そりゃあれだけ植わっていたら、秋は絶景だろう。もみじのトンネルみたいになりそうだからね。でも、何も嵐山と比較しなくても・・・。コンセプトが違うから。


三慧殿とは、19歳で亡くなった光宗君の死を悼んだ2代藩主忠宗公によって建立された御霊屋である。壮麗な厨子の図案は、支倉常長が西欧より持ち帰ったさまざまな文化を模様として描いている。
ローマを象徴するバラ、フィレンツェを象徴する水仙が扉に描かれ、ダイヤ、クローバー、スペード、ハートがいたるところに文様化されて描かれたり、縁取っていたり、釘穴になったりしている。巧妙だなーと思ったのが、スペード模様。厨子の長押に葵の御紋が描かれているのだが、(光宗君の母は将軍秀忠の娘振姫)この葵がスペードになっているのだ。つまりは、葉脈がない。そして、屋根を支える柱には、十字架が幾何学模様のごとく描かれている。これは、大航海を終えさまざまな西欧文化を持って帰ってきた、支倉常長の功績をたたえるためもあったそうだ。が、世はキリシタン禁止令が出ている徳川幕府の時代。幕府に対しては、伊達家の霊廟と申し立て、350年間公開されずに来たそうである。ガラス越しに見る厨子は、まさしく壮麗の一言につきる。馬にまたがる光宗君の像と厨子は、若くして亡くなった聡明なわが子の死を悼む親の気持ちが伝わってくるようであった。

この円通院は、バラのお寺としても有名だそうで。そのきっかけとなったのが、三慧殿の扉に描かれているバラの絵。植えられているのは、オールドローズだそうなんですけど、もみじも芽吹いていないこの季節。バラは、剪定されたままのお姿でございました・・・泣。咲いたらさぞかし、うつくしかろう、よい香りに満ち溢れるであろう、想像の翼はひろがるひろがる。
でも、この純日本という空間に西洋の庭。違和感なし、というのも、円通院の懐の深さを感じた次第。

純和風といえば、小堀遠州作庭の庭。心という字になぞらえた池には、もみじが映る。もみじ芽吹いてないけど、心引き付けられる庭。さすがは、小堀遠州。すばらしい!!ここでガイドさんすかさず、本日何回目かの「ぜひ紅葉の季節へ!」というご案内。11月まで見ごろだそうで。近けりゃ行きますけどね、近けりゃ・・・。

最後に大悲亭のご説明をうけ、終了。

光宗君の江戸納涼亭で、愛しいわが子の早逝を悼んだ忠宗公が江戸藩邸から解体移築したもの。どれだけ、光宗君が伊達家から愛されていたかがわかろうかというもの。

ご説明終了後、御朱印帳を書いていただいた。やはりこちらでも「どっから来たの?」「奈良です」「ほー。あそこ、いっぱいお寺あるでしょうに」えぇ、ありますよ、お寺だらけ。で、なぜかそこでNHKドラマ「大仏開眼トークへ。まるで昨日のニュースのように、仲麻呂の反乱について話す、宮城県民と奈良県民。そこへ、先ほどのボランティアガイドさんが、参戦。「洞川って知ってる?」「吉野の?そこの方なんですか??」「いや、魚釣りに行ったことがあるの。親切にしてもらってねー。だから、こっちの米送ったのよ、えらく喜んじゃってさー」???そりゃ、魚釣りでは有名なところではあるが、宮城でも釣れるでしょ。「奈良からわざわざ」って言われたけど、こちらから言わせると「松島からわざわざ」でっせ(笑)
トークが盛り上がった所で、御朱印が書きあがる。「秋には、またおいで。絶対においで。もう、嵐山の紅葉見飽きたでしょ。いいとこ、まだまだあるんだから」なぜか嵐山の紅葉に、ライバル心を燃やしておられるガイドさんであった。

それにしても、ゆく先々で、どこから来たか?と問われる私。標準語しゃべってるつもりなんだけどなー、なまってまっか?


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