歴史が評価するということの私見〜おじゃこのつぶやき

最近とても気になる文言がある。

それは菅首相がよく口にされる言葉。
「歴史が評価してくれる」ってヤツだ。


以下は、私の思う「歴史が評価」である。

私の親の実家は、明智光秀が城を築き、統治した所である。実家が檀家をしているお寺では、光秀の位牌と墨塗りの木像を所持していることで、近年有名になりつつある。最近でこそ、光秀の評価というのは、好ましいものになってきたが、ひと昔前までは、彼は立派な「反逆者」「謀反人」という評価であり、教育現場でもそのような教えであった。

ところが、である。バリバリの戦中教育のお陰で、「南朝」が正当であり、「楠正成」は忠義の人であり「足利尊氏」は不義の人、という認識のわが親戚連中が、こと明智光秀に関しては「ええ人」なんである。

???

国家をあげて「謀反人は、コイツだ」「忠義の人はこの人たちだ」という教育してきたのに、この結果。300年ほど前のことであるのに、この地では光秀から受けた恩は、国家の思惑を簡単に乗り越えてしまっているんである。

こういったことは他にもあって、近江の石田三成もそうであるし、12月になると悪役になっちまう吉良も地元では英雄である。



京都の山奥の人々が、自分の菩提をずっと弔ってくれると思って、「敵は本能寺にあり」と行動したのでもなかろう。

その時、その時を誠実に、力の限りを尽くしているからこそ、数百年の時を超え、国家の思惑を超え、彼らはその地に生き続けるのではないのか。


「歴史が評価してくれる」とは、こういうことではないか、と私は思うんである。自分で、評価するもんじゃないし、ましてやそれだけで、行動するもんじゃない。


追伸
小田原の幸せの鈴についてからの、歴史的な考察が的はずれで、間違っているよ!とのご指摘をうけました。ろくすっぽ調べて書いてないのが丸わかり。お恥ずかしい限りです。
で、誤解されるとダメなんで、その箇所は削除いたしました。

すみませんm(__)m

ただ、「歴史が評価する」ことについての考え方に変わりはありません。

政治家足るもの、歴史に対してある程度演技をするもんだ!とは思っておりますし、歴代首相はみな、そうしてきたことも、承知しています。


ただ菅首相の場合、歴史うんぬんと自らが言っていること。その割りには、あまりにも実態が伴っていなさすぎること。国民をバカにしすぎていること。

そのことに腹立たしさを覚えていたので、このエントリーとしました。


教えていただいた高村さま、ありがとうございました。