若冲との出会い

金毘羅さんへ行ったはずなのに、なぜか岡山名物きびだんごをお土産に職場へ。行った理由も、「若冲の絵を見に行くこと」。で、一体伊藤若冲って誰よ!?ということで、少々昼休みに盛り上がりました。そして思い出しておりました、どうして、こんなに若冲が好きになったのか。

初めての私と若冲との出会いは、鶏、違う「仙人掌群鶏系図襖」であった。小学5年の時、地域の歴史を探るという課外授業があった。当時豊中市に住んでいたのだが、当時の私が知っている豊中の歴史と言えば、空襲とマチカネヤマワニ(化石です 汗)。ほかにもあるだろう、という先生のアドバイスで、近所にあるお庭の松がたいへん立派なお寺に、お話を伺いにいった。

御住職はその時ご不在で、応対に出てくださった方が、そのお寺のお宝の話をしてくださったのが、なぜか今でも印象に残っているのだ。
1.重要文化財である
2.皇居にも(宮内省のことか?)その画家が描いた絵がある
3.進駐軍(!昭和50年代。まだまだこんな話が、ゴマンとあった)が、欲しいと言ってきたが、意地でも拒否した
4.(重文があるんで)御近所は、火災をおこさないよう細心の注意をしなくちゃいけない
5.年に一度11月3日に虫干しをかねて、一般公開する
などなど。
その画家の名前は伊藤若冲。鶏の絵を好んで描いていた人だというところまでは、なんとか理解できた。

教科書にも載っていない。百科事典で調べると、これまた地味な経歴が載っていた。「裕福な青物問屋に生まれながら、家業は早々に弟にゆずり、人とも交わらず、自分は好きな絵を描いてすごす。鶏の絵が代表的」あの当時、若冲の評価はそんなに高くはなかったんである。

それでも、何か感じることがあったのだろう。なんとその年の1年に一度だけの、虫干しを兼ねた公開に、母と一緒にいそいそと見に行ったんである。金箔を貼った6枚の襖に9羽の鶏とサボテン。あるものはきっとにらみ、あるものはエサをついばみ、あるものは居丈高に尾を天に突き上げ、足元にはかわいいひな鳥が・・・。「ウチにおった、鶏そのままやん」一緒にいった母の言葉がまさしくその通りであった。

小学5年生の私に、写実性と迫力を教えてくれた若冲は、それからことあるごとに、いろんな表情を見せてくれた。そんな中「野菜涅槃図」の限りないやさしさに触れた時に、私の中で「とても好きな画家」に変化したのである。

中央の大根が、涅槃に入っている。その大根を見守る、蕪、ゆず、しいたけ、なす、たけのこ、れんこんたち。これらはすべて、保存がきくお野菜なのだ。飢饉が珍しくなかった時代、彼は絵によって、文字の読めない人に保存食を教え、人々を救いたかったのではないか、ということであった。

従来の「絵を描く事以外、世間の雑事には全く興味を示さず・・・」という説は、もう古い。彼は、生家のある錦小路高倉市場が、五条市場と京都奉行によって存亡の危機に立たされた時、およそ3年の月日を、町の年寄「若冲」として粘り強く交渉し闘い抜き、錦小路を守りぬいたんである。この時期に若冲の大作は存在していないそうなので、いったん事が起これば好きな絵を描くことも犠牲にして世間と交渉し、闘うこともできる若冲は、強くそして優しい人だということが言えるのである。

私にとって若冲は、重要文化財の「ものすごい力」を始めて教えてくれた人であり、鶏や虫や蛙といった身近な生物の一瞬の輝きを教えてくれた人であり、なにより「絵」を見ることの楽しさを教えてくれた人なのだ。

たぶんこれからも、若冲と聞けば、万難を排してまでも、行くんじゃなかろうか、自分(笑)

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